2020年1月22日 (水)

答えは探さない

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3歳の孫の世界に付き合っていて、そうだったなと子育て時代を思い返す。

教育に正解はないし、人生にも正解はない。

 

昨日、保育園でのある光景を思い出したのか、昨日の夕方、庭で拾った小さな枝三本を使って、『きれいな音を作りましょう~♪』と掛け声をかけるように、私に何度も求めてきた。

 

タクトを振るように、枝一本を斜め上にかざして、私が『きれいな音を作りましょう』と言うと、孫が日本の枝で、部屋の中の箱などをそっとたたいている。

何回目かの遊びのとき、レースのカーテンをそっとそっとたたいているのを見て、小さな子には音が聞こえているのかなと思った。

 

そこに天賦の才を見たとか、そういうことではないのだけれど、もちろん。

 

こういう心をいつまでも大切にするにはどうしたらよいのだろうと思ったり、そういう心だけでは生きていけない大人の日々について、取り越し苦労をしてみたりする。

 

正解は求めないと言いながら、あれやこれやと正解への道すじを考えてしまう。

 

もちろん、親ではないので、無責任な発想だけれど。

 

考えずに、一瞬一瞬を感じていよう。

 

遠くから見守りながら、祈るだけ。

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2020年1月18日 (土)

光と影

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BSプレミアムで、写真家 森山大道を取材した番組を観た。

ここのところ、一人の時間がほとんどなくて、早朝に起きだして観ることにした。

 

ずんと心に残る番組だった。

 

今、日常にどっぷりとつかっている。洗濯・食事・子供の世話・・・でも、遠い若いころとは違って、期限付きの日常。

期限付きであっても、日常の中にいると、<作品としての写真を撮る>ことが、ものすごく遠くに感じられてきて、これが正解なのかも、作品としての写真だなんて、自分の気取りでしかないのかもと思ったり。

 

でも、森山大道の写真や話を聞いていて、日常と写真は密着していることを思い出した。

 

日常と言っても、愛ある生活だけにとどまらず。

 

番組の中、森山氏の口から、<愛おしさと禍々しさ>があっての写真 という言葉が出てきた。

 

自分の心の中にもある、光と影。

 

ごくごく平凡な自分で、ごくごく平凡な生活なのだけれど、誰でもない私の光と影。

 

人の言葉に、右往左往する自分が、還暦を過ぎても残っている。

そんな小さな自分も、自分であって、変わっていない私はずっと私なのだなと思った。

 

心がガサガサしても、好きなものは好きなのだということ、忘れないでいたい。

 

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2020年1月16日 (木)

脳細胞

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娘の里帰り出産。

0歳児と3歳児との暮らしも半月を過ぎてきた。

 

通常の三倍くらいに感じる炊事洗濯の日々。肉体は疲れ果てているのだけれど、発見も多くて、面白い。

 

出来立ての脳細胞から三年経って、こうなってくるのだねと、祖母の無責任さから観察している。

 

3歳児、別名、あくまの3歳児というのだそう。原始的だった脳細胞がフル活用し始めるような感じ。

 

オバババカから、天才児か!と思うような言葉を発していると思うときもあるけれど、

疲れたり眠かったりすると、脳細胞が沸騰しているような、わがまま全開みたいな、意味不明の辻褄もなにもない言葉が出てくる。

 

あれまあ、と思うような、意図が見え見えの、ズルい言葉を発することもある。

 

そして、それらを観察するに、しみじみと、

 

こちらの脳細胞は、あきらかに日々成長ではなく、枯渇してきているのだと実感する。枯渇してきた脳細胞は、いつしか、見栄とか気概とかそういうことを維持する力がなくなってきて、本能丸出しになってくるのかなあと思う。

 

本能丸出しになったとき、果たして、自分はどうなってしまうのだろうと不安にもなるけれど、そうなったときには、それを自覚する能力もないのだろうから、自然に任せていくだけなのでしょうね。

 

ケセラセラ

 

 

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2019年12月26日 (木)

海のそば

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どちらかと言うと、山の景色が好きだと思っていたけれど、海のそばに暮らすようになって6年、すっかり海峡の景色になじんでしまった。

山陰沿いの荒々しいダイナミックな景色も好きだけれど、海峡の暮らしが密着した景色と、外の海へとつながっていく浪漫の混在も気に入っている。

 

小さな漁船、大きなタンカー、フェリー。

いろんな生活が目の前を通り過ぎていく。

 

この土地で、子育てのはじめの約6年を過ごした。あの頃は夢中で、かたくななところもある未熟な母だったから、もう一度子育てをするならば、もっとノビノビとした子育てができるのではないかと思うこともある。

 

でも、今、<いやいや期>に入った3歳児の孫を相手に過ごす毎日、それも母ではない第三者だというのに、大らかな心なんてない時もある。3歳児相手に本気で腹を立てたりしている。

 

ただ、違うのは、『こんなことでよいのだろうか』『一人の時間が欲しい』という、焦りみたいな気持ちはないこと。

 

早朝、一人で起きて、ストレッチをしながら撮りためたお気に入りのテレビを観る、ささやかな時間だけでも、十分に自由を満喫できる。

 

たぶん、いつかはまた、二人の静かな生活に戻ることがわかっているからだろうけれど、それだけでもない。

 

時の流れに身を任せ~♪

 

の歌詞を、実感として感じられる年齢になったということなのだろう。焦ってみてもしかたない。

年を取るというのは、寂しいこともあるけれど、鈍感力を磨いて平和な心に近づけるという面白さもある。

 

なんて、仙人みたいなことを言っているけれど、先日、孫の傑作写真を撮ろうという野心から、一眼レフを取り出して海岸で遊ばせていたら、孫から一言、きびしく言われた。『もう、あたしの写真、撮らないで!』

 

 

冬の海
流れ静かに
留まらず

 

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2019年12月23日 (月)

雲の世界

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空や雲が好きで、ついつい、写真を撮るときも、空や雲の比率が大きくなってしまう。

自然が作り出す形は、一瞬一瞬が美しくて、おおらかな気持ちになる。

 

朝の雲、真昼の雲、夕べの雲。そして、夜の雲。

 

これからも、雲をあれこれ写して、一人でムフフと楽しみたい。

 

「空の部分が多すぎるよ。」というアドバイスを毎回うけつつ、心の中で、「だって、好きなんだもの。」とつぶやいて。

 

 

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2019年12月17日 (火)

探すこと

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写真とは何だろう。

相変わらず、そこに行きつく。

写真に限らないことだけれど、プロではない人が携わる<ものづくり>は、自分次第。

 

好きな光景を写し取りたい。人に伝えたい。コンテストで入賞したい。などなどなどなど。

 

理屈をつければ、いろんな写真を撮る理由もついてくる。

日常生活をこなすだけでも、十分に時間がかかる日々。趣味はお愉しみだったはずなのに、だんだん、大層な理由を作って日常生活を削り始める。

今、出産を控えた長女と孫が里帰り中。日常に、どっぷりと浸っている。

 

 

 

ばったり写真友達に会って、「今年は秋を撮りそこねたね。」と言われたのだけれど、それをそれほど残念にも思わわない私は、写真への情熱が足りないのかな・・などと思ってみたり。

 

でも、やっぱり違う。

 

絶景もすてき。そこに立てる幸せもある。

 

でも、私にとって写真を撮ることは、何かを探すということに直結していて、どこに私がいても、同じなのだと思う。

 

何かを探しつづけたいという抽象的な気持ち。それは、ただの逃げなのではないか?なんて思ったりもしたけれど、逃げと人から言われるならばそうなのだろう。

 

でも、私がそうであればそうなんだ。

 

こうしたいと思ったら絶対に曲げずに、地団太を踏む孫を見ていて、自分のDNAなのか、それとも、これが人としての正直な欲求なのかと、見ていておもしろい。

 

日常を淡々と生きて、あるとき、いつでも、<どこでもドア>を開けて歩いていく。

 

 

 

 

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2019年12月14日 (土)

年の終わりに

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長いお付き合いのネット友達がブログを閉じると聞き、ダラダラとネット空間にブログの部屋を置きっぱなしにしていた自分を顧みた。

ブログをはじめて何年になるのかな。

(追記:この日記を書いたあと、振り返ってみたらブログ開設から15年。ピックアップして10年前の日記を読んでみたら、東京の写真クラブでの自分の悩みや思いが、今ここ下関のクラブでの悩みや思いと、たいして違っていないことに笑ってしまった。まったく私ってやつは。)

最初は、ほかの人のブログを読むことから始まった。こわごわと、初めてコメントをしてみた日、コメントするなら名刺代わりの自分の部屋を持ちたいと思った日、そして初めて記事を書いてupしたときのドキドキ感。

 

写真と出会った頃、PCに長時間向き合って、どの画像を選ぼうかと迷う楽しさもあった。

 

どこかで、少しずつ変化してきた。変化は悪いことばかりではなくて、変化した先にまた新しい道が開けていく。

 

子どもたちが独立して、孫もできて、子育てという意味でも、世間の<現役>からは退いてきたなあと感じる場面も多々ある。

 

現役からは退いたから、今度は飄々と、自分育てに向かっていくのでしょう。

 

かつて、ブログでせっせと書いて考えてきた心を耕すことの意味。丁寧に暮らすことの意味。

 

意味も答えも、たぶんわからないけれど、やっぱりそれを考え続けることは、変わらないのだろうと思う。

 

明日は何があるかわからないこの頃。

 

私を鼓舞してくれる、私が書き散らしたネットの言葉。

ネット上のごみとして漂流しないように、きちんと責任をもって処分しておかなくてはいけないと、年の終わりに感じ入っている。

 

感じ入りつつ、久しぶりに、ズルズルと書いてしまって・・・なんかすっきりしている私もいる。

 

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2019年9月15日 (日)

秋なのに

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秋なのに暑い毎日。

あちこちで、秋祭りがあって、少し億劫に感じながら撮影に出かけた。

出かけてみると、暑さなんて何のその、大人も子供も真剣に祭の役割を果たしているようすに感動してしまう。

 

平穏な日々を祈ることを、しみじみ思うこの頃。

 

自然の脅威を前にすると、どんなに文明が進んでも、なすすべもない時があると不安にもなってくる。

 

でも、今日出会った、長い歴史のあるお祭りで、真剣な顔で鉦を打ち鳴らしていた少年の瞳を思いだす。

いろんなことがあっても、コツコツと積み重ねてきた人間ってすごいなとも思う。

 

コツコツじわじわ幸せを手繰りよせることは、安心感がある。

 

 

 

例年以上に、安寧を祈る秋。

 

 

 

 

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2019年8月26日 (月)

夏の名残り

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今年の夏も、関門海峡の花火を撮影できた。

今年で4回目。

4回とも、場所を変えての挑戦。

 

今年は、北九州側下関側、両方を入れて撮りたいと思ったけれど、今回選んだ場所からだと、両方はムリだった。

途中、月がきれいだなあと月とコラボも考えたけど、月がちょっと遠すぎる。

 

こうすればよかった、ああそればよかった、来年はどうしようかなあと考えるのも楽しい。

 

花火は人が多いし、帰り路はどっと疲れが出る。結果は、そんなに上手な写真は撮れなかった。

 

でも、ちょっと涼しくなってきたこの頃、夏の思い出として浮かぶのは、どーんとあがって、ぱーっと咲き、静かに消えていった花火。

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2019年8月 8日 (木)

どこまでも

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友達と、未来のことは予測がつかないという話題に。

 

人生100年時代だとしたら、まだまだ、わたしは中堅どころかな。

終の棲家のつもりの我が家だけれど、体力的に維持できなくなれば、どこに住むかもわからない。

 

わからないことだらけ。

 

若いころ、60歳代と言えば、それなりの境地みたいなものに到達しているだろうと思っていたけれど、なってみればそんなことはない。

写真クラブの80歳代の写真ともだち?も、自分の作品に自信を失ってみたり悔しがってみたり、少年みたいなお顔を見せてくれる。

 

年齢を重ねるとは、年齢について考えなくてもよくなってくるということかも。

 

ある日、病に倒れて、誰かに迷惑かけるかもしれないけれど、そうなったら、なったでしかたない。

 

道は、どこまでも続くようでいて、どこにも続いていないように思えるときもある。

 

でも、どこまでもどこまでも・・・と終わりがあることは忘れて、のんきに。

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